令和の波にせっかくだから乗っていこうみたいな
もうすぐ平成が終わる。
まあこんな話、すごい数の人間が言ってるし
そういうイベントもあるし、そういう企画もTVも動画も音楽も
鬼のようにあふれている。
平成が令和になったところできっとあんまり変わらない。
子供ができたってそう簡単に人間は変わらない。
就職をしたからって社会人になったからってそう簡単に人間は変わらない。
まあきっとそんなもんだ。
でも時代が、年号が変わって、「変わろうぜ」みたいなノリがあるなら
せっかくだから乗っていこう。
今ダメだとおもっていることを
もしそんなことで変えれるならいいじゃない。
未来にいつでも希望を抱けばいいじゃん。
結構いやなことも多いけど、意外といい飯食ったり酒飲んだり
セックスしたりしちゃったら忘れたりする。
てかそんくらいで忘れちゃえばいいんだよ。
世間に対してまともであろうとしなくていいじゃん。
目の前にいる人間にだけ失礼じゃなければいい。
たたく奴らなんてほっとけ。無視だよ、無視。
馬鹿が増えたんじゃない。
馬鹿が目に付くようになっただけだ。
馬鹿は昔からいたんだよ、いっぱい。
そんな馬鹿でもみんなに声をあげれるようになったんだよ。
iPhoneで。スティーブ・ジョブズ凄い。
きっと未来は今よりもっと閉鎖的だ。
一部の人しか、OKされた人しか、望んでそこにいった人しか
そんな人しか見れない、体験できないことが増えていくんだろうと思う。
意味もなくオープンである必要なんてない。
身内ウケ、最高じゃん。やめよう、誰とでも友達。
誰でも友達になれるやつなんていないし、それは知り合いがいっぱいいるだけ。
わかってくれる人しかいない、そんな世界をそれぞれみんなで作ればいいじゃん。
みんながわかる大きな物語、きっとそれは終わってしまった。
それぞれが持っている小さな物語、それじゃ満足できなくなってしまった。
それなりの人数が持っている中途半端な物語、それが今は最高じゃん。
世界はどこまでも広がってない。
世界は自分の見える範囲。それでいい。
みたいな雑誌を石田祐規と増田捺冶がつくったらしいよ。
僕も寄稿してるよ。っていう宣伝だよ。エモいこと書いたふりだよ。
良かったら買ってね。
自分が考えてもいない方向に自分が変わった話
自分は捻くれている人間だなぁと思う。物事はナナメから見ているし、普段からなにかしら捻くれた感じでニタニタしている。
もはや大昔になってしまったが演劇をやっているときからそうだった。
基本的に人の一生懸命な姿をどこか面白いみたいな目線で見ていたなぁと振り返ってみて思う。
映画でもまっすぐなラブストーリーとか王道なものは全然見れないし、それはアニメだろうが漫画だろうが変わらない。こっぱずかしいというか、自分には合わないものだ、そんな感じに思っていた。
それがここ2年くらいで何かが変わってしまった。
1番最初は一昨年の夏に仕事でイギリスに行った時のことだ。日本からイギリスだと搭乗時間が10時間強。なかなか暇でなんとなく飛行機内についてる映画をぼーっと見てた。三本目くらいだっただろうか、特に何の意味もなく、邦画のベタベタなラブストーリーを見始めた。もちろん心はいつも通り捻くれているので暇つぶし以外の何者でもなく感動も何もしないと思っていた。
しかし飛行機に乗っているという状態が嫌いなので、いつもとは違って少しでも時間が早く過ぎるようにとストーリーにある程度集中しながら見ていた。
そして映画の終盤、ストレートに悲しい別れのようなシーンになったとき、恐ろしい事が起こった。
普通に感動して泣いてしまったのだ。
体験した事がないことだったのでなんなら少しテンパってしまった。ラブストーリーで感動して涙が止まらないなんぞ経験した事がない。しかも隣の席には仕事の同僚がいる。万が一見られでもしたら本当に恥ずかしい。なんとか誤魔化すためにその場で無理やりあくびを連発し、さもあくびで涙が出ましたのような振る舞いをしてしまった。
僕はその日を境に、いろんなものにストレートに感動するようになってしまった。
その後、この謎の変化にちょっとリアルに悩みはじめた。いったい何の変化なんだろうと。年をとったからか?みたいなことも考えたりもしたがあんまりピンとこない。
結構いろんなことを思い返したり、考えてみたりしたのだが結局よくわからなかった。
相変わらず捻くれた見方はそれはそれで変わっていないのだけれど、それに追加で感動するときは普通に泣くという謎の感受性が身についてしまった。
考えてみたら仕事でやっている音楽ライブでもちょいちょい感動して涙腺が緩みかけたりしていた。
まあ自分自身をナナメから見て、そういう自分もある意味面白いなと思い、ざっくり片付けた35歳。
自分が考えてもいない方向に自分が変わった話。
なんとなく気持ちなどを整理するかんじ
34歳で初めて一人暮らし始めた話
今月から渋谷で一人暮らしを始めた。
34歳まさかの人生初の一人暮らしだ。
高校生のときの家に帰らず友達の家のフラフラ、大学自体のほぼ大学に住んでる状態、22〜24歳くらいまでのヒモ生活、24〜最近までのシェアハウス暮らし。
こんな流れからの一人暮らしなもんだからすごい不思議な気分。
そもそも何で一人暮らしをしようと思ったかというと、まあ一言でいうと元カノの言葉なんですよね。
普通に結婚しようとか思ってたりしてたんですけどフラれる直前くらいに
『家来てって言ってもシェアハウスじゃん。』
って言われて『確かに!』って思っちゃったんです。
普通に自分の家で料理を振舞ったり振舞われたり、一緒に寝たりとかそういうの人生で全くしたことが(自分の家で)ないことに気づいてしまい
そうだ!一人暮らししよう!!!
ってなったわけです。
まあ今は連れ込むなり、一緒に住む彼女がいないわけですが。
一人暮らし始めてとりあえず最初に思ったのが静かであるということ。
まあ渋家に住んでたのもあって基本的には周りに人が居てワイワイしてるのが当たり前だったんですが、今は外の人の声が聞こえて来るくらい。
んでそうすると
外の若者の声ってうるさいって思うんだなぁと。
改めて渋家の近所の人たちに申し訳ない気持ちが出たりしました笑
自分が散々うるさかったはずなので苦情とかはもちろん出しませんが。
今は概ね家と事務所の行き来、休日に頑張って女の子とデートできるようにするみたいな生活なんですが
ふと遊びに行ける大きなコミュニティ、小さい頃で言えば友達が絶対にいる公園みたいなものはほんと大切だなぁと。
まあそれが僕にとって渋家なんですけども。これはお金払い続けても残す価値があるってより強く感じました。
なんか渋家ってメンバーとか元メンバーの関係が大学の友達以上、家族未満みたいな独特の距離感があって、ぼくにとってはそれがなかなか心地よいですよね。部族みたいなノリなのかもしれない。
それはそれとして彼女がほしい。
社長日記7月前半
僕が死んでも会社や渋家は回るか?
三週間前くらいにインタビューを受けて面白い質問をされた。
あなたが死んでもあなたがいるコミュニティ、渋家、会社は回ると思いますか?
僕はなんとなく回らないと答えた。
それについてここ最近ちょっと考えてた。
回らないし、回らなくてもいいと僕は思ってる。
それは他の人間にも言えることだ。
僕が面白い、または凄いとか尊敬してるとか才能があると思う人間を集めて、集まって、または僕も集められて、僕がいるコミュニティは成立している。
他の人間がどう思っているかはわからないが、僕がいるあいだはこの大きなコミュニティは回し続けようと思う。これは自信ではなく覚悟に近い何か。
きっと僕がいるこのコミュニティは他の会社やコミュニティに比べればとても危うく絶妙なバランスで保たれているように見えているんだろう。それは事実、そうだ。
僕は自分がいるコミュニティをある意味バンドや劇団のように捉えている。
そこにいる人間がやりたいことを、するべきだと思っていることを会社というシステムをつかって社会に接続をしてる。
まあ難しいことはよくわからないが僕は会社とは本来こうあるべきものであると捉えている。浅い知識の中、会社のルールを知れば知るほど、昔に会社という概念を作った人たちが今のようなコミュニティを成立させるために作ったようにしか思えない。
10年残っているコミュニティ、会社はとても少ない。5年ですらほとんどない。
僕は少なくとも自分が生きている間は残して行くだろう。でもそれはだれでも残していけるような万能なシステムではなく、どこまでも人力でそこにいる人間頼りで、いろんな才能にもたれかかったものになんだろうなと思う。
もし自分が死んだとき、これを引き継ぐような人間が現れたらぜひ好き勝手に、ぜひ無茶苦茶に潰したり変えまくって欲しいと思う。思想も信念もなにも引き継がなくていい。資本のみでいい。勝手にしてほしい。
そういう意味でもし僕が死んだら
今いるこのコミュニティは回らないし、回らなくてもいいと思っている。
ふんわりまとまったからふわっと書いた。
Twitter開くのが億劫になってきてた話
とても感覚的なものなんだけど。
ここ一年くらいかな、Twitterを見てても情報収集くらいしかしなくなった。
いろんなトピックスや人の感情の揺れ動きを含め情報収集するものになっている。
収集すると同時に自分が何をやっているかの発信にもつかえる。
そういう意味でTwitterはとても便利で使いやすいし掌握しやすい。
インターネットがツール、道具にもどったというイメージ。ちょっと前の漠然と誰とでも繋がっている無限に広がってる世界みたいなのはもうあんまり感じない。ケータイとかと同じ道具になった。
インターネット上で戯れたりするより実際に会って話して騒いだり喧嘩したりする方が楽しい。リアル以上の現実なんてやっぱりリアル以外には存在しないんだなぁと。それを加速させる道具としてインターネットは存在してるって感じだ。
ちょっと話は変わるけど、会社だとインターネットでのコミュニケーションとインターネット無しでのコミュニケーションを意識するようにしている。
僕の世代も含め、インターネットでコミュニケーションしちゃってた人達は面と向かって感情を出すやら出されるということに慣れてない。
その場でログアウトできないからしばらくは受け止めるなり出し続けないといけない。グダグダ喋ったり、ここが気にくわないみたいなことはしっかり言えるようにならないといけない。
まあこの話はインターネット有る無し関係ない話なのかもしれないけど。昔はそれが給湯室の愚痴だったり飲み会だったりしたのかもしれないし。
Twitterを開くのが億劫になってきた。
まあそれはインターネット上で何かするよりそんなことより会って話して見たいとか、それだけじゃ足りないからってことなのかもしれない。